偏在する"私"の視点 - 『この世界の片隅に(下)』

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

 非常に長い長い作品を読んだという印象があったので、一冊あたりがほんの150ページ程度で構成されていることに後から気づいて凄く驚きました。読んでる間の没入感が本当に凄くて、読み始める前と読み終わった後の自分の時間が不連続に感じられたほど。"漫画でしかできない表現"の凄さを、これほど明確に感じた作品は今までありませんでした。

 戦争という"巨大な流れ"*1に取り込まれざるをえない出来事を扱っていながらも、本作で描かれるのはあくまで主人公の個人的な視点です。だから本作は、戦時中の広島・呉という舞台を扱っていながらも、「反戦メッセージ」のような大きな"主張"がきわめて希薄です。この姿勢は、平和を呼びかける反戦チラシを「他人から指図されること自体が不幸」と鼻紙にしちゃう義姉さんの行動にも明示されています。

 本作は、作品自体が"巨大な流れ"となることを、おそらく意図的に回避しています。にも関わらず、本作で描かれているものはとても普遍的であるとも感じます。「この世界のあちこちのわたしへ」という最初の一文は、本作で描かれるような"個人の物語"は世界中に遍在するのだと言っているように思えてなりません。ただひとつの"巨大な流れ"で取り込むことによって普遍性を描くのではなく、無数に偏在する"個人の物語"を描くことで普遍性を帯びた、本作はそのような作品であると思います。

"私が偏在すること"は、本作の重要なテーマのひとつだったと思います。「どこにでも宿る愛」「いつでも用意さるゝあなたの居場所」という最後の手紙の文面にもそれは感じられます。だからこそ、最後に登場する女の子はすずさんにとって何の繋がりもない"他人"だったのでしょう。最後にそこに生じたのが特別な関係性なしに成り立つ「どこにでも宿る愛」だったことこそ、その偏在性を何よりも強く示しているのだと思います。

*1:たぶん「大きな物語」と読み替えられるところ。