SF小説の視点のレイヤ、あと物語感覚の加速について - うえお久光『紫色のクオリア』

紫色のクオリア (電撃文庫)

背景

 発売当初から、『紫色のクオリア』が凄い、という話は繰り返し聞いていました。だから、まず傑作なのだろう、とは思っていはいたのです。ただ、「傑作」程度の作品は年に何十作も生まれてくるし、過去を含めると膨大な数に上ります。その全てを読むのは土台無理なことなので、「傑作」だと聞くだけでは、特に食指は動きませんでした。

 でも、しばらく様子を見ていると、どうも様子がおかしい。「傑作」は稀少ではありますが、それでも相当の数が世に出回っているのは間違いないです。ある傑作を堪能したら、次は新たな傑作を求めてさまよい歩く。それが、フィクションを悦びとする多くの人の習性です。ただ、そのわりには、『紫色のクオリア』はあまりに長いあいだ話題に上り続けていました。

 夏頃に出版されてから、もう半年。それなのに、『紫色のクオリア』の話題は、いまだにちょくちょく見かけます。具体的にはid:kaienさんとこのチャット*1とかで、私が読みと手して信頼を置いている何人もの人たちが、何ヶ月にも渡って繰り返しこの作品に言及していたわけです。ある程度面白い作品を読み終わった直後の人が、興奮した勢いで周囲にも勧めて回る、という状況とは一線を画しています。

 だから、これは並みの傑作ではあるまい、と判断しました。そういう経緯もあって、かなり期待して読んだわけです。結果として、本作は、そんな高い期待をも遙かに上回るものでした。

SFとして

 SFとして、どうか。本作にはクオリアとかシュレ猫とかの基本的なタームがいくつか出てきますが、科学SFの蘊蓄を大量に盛り込んでディテールを補強する類の作品ではありません。説明があるのは、本作の骨子となるアイデアを形成するためにどうしても欠かせない、最小限必要なタームだけ。それらは、どちらかというと体育会系? の主人公によって、ごく平易な言葉で説明されます。しかも「というようなことが本に書いてあったけど、私にはよく分からん」と主人公にとってもちんぷんかんぷんな感じで締められるので、科学的な知識がなければ読み進めることの出来ない作品、には全くなっていませんでした。


 難解な用語を洪水のように積み重ねることで、その世界の具体的なイメージを構築しようとするSFは多いです。架空世界をイメージするための具体的で強固な視点、それがSFの追求する到達点のひとつであることは間違いないでしょう。いわゆる「ハードSF」は、多分こういう地点を目指しています。

 でも一方、シンプルで抽象的なロジックは、同様にシンプルな言葉で表記することができるはずです。そういう類のSFは、ほんの数行の平易な言葉で、私たちの認識を遙かな高みまで一気に飛翔させてくれます。ダイナミックな視点の飛躍、胎児が産道から顔を出すような世界観の転換。または、そうして描き出される視点自体がもたらす未知の感覚。それがSFの目指すもうひとつの到達点だと思いますし、その瞬間のカタルシスをこそセンス・オブ・ワンダーと呼ぶのでしょう。本作にはそれがあります。

 ジャンルの中で共有される個々のSF技術・アイデアの内のひとつという観点では、本作はあまり大したことをしていないのかもしれません。ただ本作には、劇的な視点の飛躍があります。今まで保持していた世界観が一瞬にして解体され、全く新しい観え方に再構成される快感があります。技術的にどうやってその視点を獲得するかという解説よりも、現に描き出された未知の視点の在り方にこそ新しさがある。ややボルヘス的とも言えるこの感覚をもってこそ、私は本作を日本SFの傑作のひとつに数えたいと思っています。

ストーリーテリングのキレっぷり

 視点の飛躍と言いました。アイデア的には全く同じことを言っていたとしても、それをただ説明的に書き連ねるだけでは視点の飛躍は生じませんし、本作もこんな傑作にはならなかったでしょう。本作のストーリーテリングは非常に秀逸かつ少々型破りで、だからこそこれほどのセンス・オブ・ワンダーを獲得することが出来たのだと思っています。

 よく言われるように、本作はライトノベルとしてはかなり特殊な書き方をされています。でも、それは別に、ここまで本格的なSFアイデアライトノベルにしては珍しい、という意味だけではありません。それよりもっと特徴的だと思うのは、本作の「語り口」です。

 まず第1章として、「毬井についてのエトセトラ」という100ページほどの中編があります。この章では、本作の中心登場人物「毬井ゆかり」についての情報が、数学証明に入る前に必要な定義・公理をそれぞれ説明していくような形で、順番に語られていきます。小題も、「1.毬井の前提」「2.毬井はかわいい」「3.毬井の感触」「4.毬井紫の瞳」……という感じ。これらは読みものとして単純にとてもよくできていて、規則を箇条書きで無機的に羅列したような退屈さは全くありません。だから、一見すると不自然さも感じないのですが、時間軸を超越したこいう語り口は、実のところけっこう珍しいものだと思います。

 第2章、「1/000,000,000のキス」の語りでは、時間軸がさらにしっちゃかめっちゃかになります。ただし主人公の認識のスケールでは、描写の順番はむしろ線形的になります。出来事を起きた順番にひとつずつ語っていく、という形式なので、構造としては普通の小説に近くなるのです。けれど語り口の特異さは、むしろこちらの方が特異さが際立ちます。ちょっとうまい言い方が思いつきませんが、描写の視点が"非常に高い"レイヤに置かれているのです。


 ほとんどのライトノベルは、そしてわりあい多くの小説は、現象ベースで描写が展開していきます。自分は今どこにいて、誰とどういう状況で話していて、身体や表情をどのように動かして、どういう話をして……というレベルでの描写です。ひとつのシーンの描写の中に、五感全てを盛り込みなさい、みたいな小説初心者への教訓的決まり文句があります。まさにそういう感じに、まるで自分がそこにいるかのような位置に視点を置いて、出来事をわりとベタに描写していくのが、多くの小説の書かれ方*2です。

 けれど本作の場合、視点の重心を置くレイヤがそれと比べて"非常に高い"、ということです。主人公が歩いたり、走ったり、誰かと会話したり。そういう具体的な言動、時間感覚に同期したシーンが、極端に少ないわけです。語り部の身体の具体的な状態はさておいて、思考のみを記述する。そういうシーンが一時的に挿入される作品は、ライトノベルでも、それ以外のあらゆる小説でも別に珍しくはありません。ただし本作では、完全にそういう描写が基調となっているわけです。

 現象のレイヤまで視点を下げた、具体的なシーンがないわけではありません。むしろ、通常の記述が思考・回想ベースにあるだけに、要所要所で描写される"低レイヤの"身体的なシーンは、ひときわ印象的に見えます。これまでずっと高い位置から出来事を俯瞰的に見下ろしていたカメラが、突然ズームアップして、登場人物のいる舞台の間近まで迫る。その瞬間、登場人物がきわめて重要な一言を放つ。劇的な瞬間を捉えたカメラは、すぐさまその場を離脱して、あっという間に元いた高さまで戻ってくる。そしてまた、思考・回想をベースとした抽象的な記述が続いていく、と。

 こういう叙述の仕方では、舞台のディテールを隅々まで描写することは不可能でしょう。だから、ひとつのシーンを丹念に描くことで活き活きした情景を浮かび上がらせる表現には、圧倒的に向いていません。でも反面、利点もあります。それはまさに、瞬間的な描写だからこそ獲得しうる鋭利な表現であり、描写の視点や舞台そのものがめぐるましく切り替わる転換の快楽です。

加速する時間感覚

 そして、描写のレイヤの切替は、読者の感じている時間感覚をも操作します。身体に同期したシーンでは、現にそこにいる登場人物が感じているのと同じ速さで読者の時間が流れています。けれど、思考のレイヤにベースを置くと、もっと速い時間感覚で描写を進めることが可能になります。ここの描写密度を工夫すれば、等比級数的に加速する時間感覚を演出することもできるのです*3。そうやって、物語をどんどん加速させながら押し進めることによって、本作は圧倒的な密度の物語を一冊の中にに収めることに成功しています。

 たとえば、本作2章の各エピソードを身体時間に同期したレイヤでひとつひとつ丁寧に描写していけば、十数冊の大長編にすることもできたでしょう。それが完成していたとしたら、それはそれで面白かったろうとは思います。でも、それほど数多くの出来事、視点の度重なる変遷が、たった200ページ程度の枚数で一挙に読者の頭の中に押し寄せてくるわけです。それはまさにセンス・オブ・ワンダーの感覚で、だからこそ本作のSFとしてのカタルシスは、この「語り」によってこそ生み出されたと思うのです。

*1:昨年で終了。

*2:レイヤをさらに下げて、あらゆる現象を徹底的に描写しまくった『虚人たち』が実験小説と呼ばれるように、これも程度問題ですが。

*3:なおSF小説以外では、たとえば舞城王太郎さんは、文体によって速度感覚を制御していそうです。また紅玉いづきさんの『ミミズクと夜の王』は、描写テンポの制御による物語進行スピードの加速演出を見事にやってのけていました。(作者のほんとの意図は知らないので、読んでてそんな気になる、という話ですが)