現実/オカルト二重化解釈による『彼岸花の咲く夜に 第一夜』各話読解【ネタばれ】

 この記事は『彼岸花の咲く夜に 第一夜』を全面的にネタばれします。ご注意を。


 彼岸花に登場するオカルト描写は現実に起こった出来事に対する「後付け」であり、それによって世界が二重化されているという解釈のもとに各話を読解します。前提となる発想については第一夜感想の三章目、「オカルト描写は後付け、という読解」あたりをどうぞ。

 今回の記事の大雑把な焦点は、「現実には何が起こっていたのか」と「オカルトによって何が意味づけられたのか」の二つ。考察記事といっても「オカルトが後付けされたことにどんな意味/効果があるのか」を読み解くのが目的なので、伏線を拾って「真相を推理する」類のものではないことをご理解ください*1。仮説を前提とした深読みはするけれど、作者の意図そのものは問題としない、というスタンスということでひとつ。

おさらいと整理

 竜騎士さん作品における「魔法」=「オカルト」の存在意義は、事実に反する物語や認識で人に慰めや救いを与えることです。これにはいくつかの描かれ方がありますが、たとえば

  • 悲しい現実を否定するための嘘・空想をオカルト的に力によって「あったこと」にする、またはそう思い込ませる(うみねこの真里亞や縁寿の幻想、紅茶紳士の見せる幻想、第6話「とある少女の一日」全体など)
  • 人間の犯した罪をオカルト的存在が肩代わりする(うみねこの各魔女悪魔全般*2、ハメルン、夕闇のスミレなど)

といったパターンがあります。

 また、単純にお話をスムースに進めたり、シーンにオカルト的な彩りを添えるための作劇上の演出として

  • 物語の都合上起きる恣意的な展開や偶然の出来事を「オカルト現象」として処理する(彼岸花の行動全般など)
  • 現実の出来事を直接描写せず、オカルトを交えて象徴的に描写する(自発的な心変わりを妖怪に諭されたように描く、自問自答を彼岸花と毬枝の会話として描写するなど)。「状況」の擬人化。

などの形でオカルト描写が用いられることもあります。ひとつの描写でもその意味・働きは多岐にわたりますから、明確に分類できるようなものではありませんが、傾向としてこういった方向性があるものと思っておいてください。

第1話「めそめそさん」

 初出が2006年と、かなり古いお話です。そのため現実とオカルトの二重化はまだ意識されていないらしく、どちらかというとファウスト掲載の小説『怪談と踊ろう』などと同様、「噂話を経て人為的に発生する怪談」がテーマになっています。なのでこのお話に「非オカルト」の解釈を当てはめて「事実」を探る必要はあまりないかなと思うのですが、最初の話ですし一応手続き的に確認だけしておきましょう。

現実に起こっていたこと
  • 事実は単純。虐げられながら生きて報われずに死んだ不幸な女の子がいた、ただそれだけ。
  • 毬枝は自発的に心変わりして先生に反抗しようとしたけど、あっさりと殺された。
  • 金森が行方不明になったのはおそらく事実。罪の意識に囚われて自殺したり蒸発したりしたのかもしれないし、ただ単なる偶然の事故で人知れず死んだのかもしれない。
毬枝

「彼は偶然死んだのではなく、生前殺した誰それの霊に祟られたのだ」と考えることで、被害者の無念が本人の手によって晴らされたのだ、と復讐の物語を幻視することができます。現実/オカルトの二重化を前提として考える場合、本編も基本的にこのパターンに当てはまるでしょう。

 ただし毬枝ちゃんの場合、金森先生への復讐よりも、そのあと各短編に登場して人助けするようになることの方が重要だと思います。強くなりたいと思いながら何もできず死んでいった毬枝ちゃんにとって、「死後学校に棲みつき、自分と同じような弱い子を助け続ける」姿を描いた『彼岸花』シリーズ自体が、なによりの救いになるのかな、と。悪意と苦痛に満ちた学校の中で、毬枝ちゃんのような心優しい幽霊が奮闘しているという光景も、現実に対する祈りみたいなものとして、一種の救いをもたらしてくれます。

彼岸花

 世界観の説明役であり、物語の狂言回し。作家の意図した方向に話を進めるため、要所要所でキーパーソンに介入しています。実際に彼女がやってるのは人を転ばせて保健室送りにすることくらいですが、それがきっかけになってお話が展開したりします。本編の場合は、毬枝ちゃんが金森先生との対決を決意するきっかけになっていますね。「毬枝ちゃんの決意」を物語的に分かりやすく見せるため、その状況を一種擬人化して描いた見ることもできます。

第2話「幽霊写真機」

 このお話も、現実とオカルトの二重化はまだ希薄。現実的に解釈しようとすると、かなり強引な説明になってしまいます。ただし校長先生の能力は作品世界に整合性を与えるためにかなり重要です。

現実に起こっていたこと
  • 作中描写された通り。野々宮くんは陽子ちゃんを嫌がらせの末自殺に追い込んだ。
  • いなくなったクラスメイト、毬枝のことは「いやな記憶」としてごく普通に忘れていた。
  • 陽子に関する記憶は、もうすこし積極的に封印していた。毬枝母の毬枝に対する記憶も同様。乖離など、一種の「症例」に当てはまるケースかも。

 2枚の心霊写真が「物証」として残っているとすればもうお手上げですが、まあ現実にだって「心霊写真とされるもの」は山ほど存在しますしねー(強引)。

オカルトの解釈

 終盤の彼岸花ちゃんは、後述する5話と同様「自分の悪行を思い出せと囁く役割」ですね。実は本人が勝手に思い出しただけの場面を、オカルト的味付けで描写したものと見ることもできます。彼岸花ちゃんが陽子の例を連れてきて決闘を迫るくだりは、強引に説明するなら「過去の悪行を思い出して罪の意識に囚われた野々宮くんが、罪の重さに命を絶つか罪を受け入れて生きていくか葛藤していた場面」となるのでしょうか。陽子ちゃんの霊が野々宮くんの罪を赦すのは、典型的な「オカルト描写による救い」でしょう。そう思い込むことで、野々宮くんはようやく罪の意識から前向きに立ち直ることができた、といったところでしょうか。

 いずれも、「現実/オカルトの二重化」を前提に考えればこう説明できる、程度の読みで、この解釈を積極的に採用する必然性はなさそうですね……。

校長先生

 設定上は人の魂を過去ごと食らう恐ろしい妖怪ですが、物語上の役割は「忘却によって人の気持ちを救うこと」です。校長先生も彼岸花ちゃんもそうなのですが、設定上の言動の恐ろしさと物語上の役割の優しさが乖離しているキャラクターが多くて面白いですね*3

 まともに考えれば、行方不明や殺人・自殺がしょっちゅう発生し、挙げ句の果てにバス転落事故による大量死まで起きてるこんな小学校、問題にならないはずがありません。コナン君の行く先々で人が死んだり、金田一くんのクラスメイトが累計何十人も死んでたりするのと同様、物語のお約束といえばそれまでなのですが、現実的にはちょっとありえません。そこで校長先生が死者や行方不明者の過去そのものを抹消し、状況に整合性を持たせているというのが作中の説明。

 ただしもっと重要なのは、この構図を反転して「どんな事件だって起こったことにできる」ことです。もちろん、校長先生に「なかったことをあったことにする力」があるわけではありません。でも作家にすれば、「昔そんな事件があったが、校長先生に過去を消された」と設定することで、新しい出来事を矛盾なくいくらでも創り出すことができるわけです。小学校で人が死ぬような話をオムニバス形式でばんばん書ける舞台装置として、校長先生の存在は強力な理由付けになっているのでしょう。

第3話「お姫様の嘘」

 このお話から、現実とオカルトを二重化する仕掛けが本格的にはじまります。

現実に起こっていたこと
  • 事実は最後に明かされた通り。いじめられていたのは主人公みどりの方。
  • みどりは幻覚を見ていたのですらなく、単に羨ましい川田のぞみと自分自身を入れ替えた慰めの妄想遊びに耽っていただけ。
  • ラストは妄想で一人遊び(一人演技?)してる現場を当の川田のぞみに見つかり、あらためて現実に直面させられて動揺のあまりアヘ顔。
オカルトの解釈

 本編の描写は、もちろんみどりちゃんの妄想がベース。ただし妄想といっても、別にみどりちゃんが本編の描写通り脳機能レベルでどっぷり妄想の世界に生きていたとまで考える必要はありません。

 現実逃避で日がなそんなことばっかり考えてるから設定とか描写の細部がやたらとリアルに作り込まれているけど、もの自体は「もし三億円当たったら」みたいな誰でも考えるような夢物語の延長で構いません*4。その、あくまで「作り話」である空想世界の設定をベースにして「現実」を描写し直したのが本編であると考えても、辻褄は合うでしょう。こっちの方がオカルトの働きがくっきりするので、個人的には好きな解釈です。

 みどりちゃんにとって、幸せな空想世界はいうまでもなく「救い」なのですが、その空想世界自体を最後にぶち壊しているのが意地悪なお話です。シリーズ内の他の短編と違い、「救いとしてのオカルト」の仕組みを内側ではなく外側から見た作品ですね。ただし、「不遇の現在を耐え忍べば、きっと開花するだろう」とクリア後資料に書かれている通り、妄想に逃げ込む人間をただ揶揄するばかりの作品でもないことに留意したいです。「どんなに惨めな姿になってもいいから、とにかく今を生きのびろ」という希望も読み取れるわけですね。

紅茶紳士

 もちろん「妄想を現実と思い込む力」の擬人化です。校長先生の片腕というだけあって、こちらも現実逃避によって人の心を守る能力ですよね。

 紅茶紳士にはもうひとつ、友達のいないみどりちゃんにとってのイマジナリーフレンド的存在*5という側面もあるのかなと思います。毬枝ちゃんにとっての彼岸花ちゃん、5話の二瓶くんにとってのハメルン、7話の榊さんにとっての玲子ちゃんなど、イマジナリーフレンド解釈は本作のいろんなきゃらくたーに当てはまります。作劇の都合上、「主人公の前にだけ姿を現す妖怪*6」はいくらでも出てくるので、そられを全てイマジナリーフレンドと解釈するのは安易な一般化のしすぎですが……孤独な彼らにそういう「話し相手」がいたと想像すること自体がひとつの「救い」(慰め)であることを考えると、「後付けのイマジナリーフレンド」という読みはあながち的外れでもないのかな、と思います。

第4話「鎮守神さまの祠」

現実に起こっていたこと
  • 作中の描写そのまま。祟りなどはじめからなく、全ての事故(未遂)は主人公みちるの狂言。自分の霊感を本気で信じているのか、それすらも人目を引くための虚言であるのかは分からないが、どちらにせよみちるは典型的な"自称"霊感少女。
  • 狂言の動機は、良く言えば「神のため、神に代わって」、悪く言えば「祟りがないと困るから」。
  • ラストでみちるが思いとどまったのは、単に自制心を働かせたため。
オカルトの解釈

 鎮守神が実在しなければみちるは「単なる痛い子」ですが、鎮守神が実在することを前提に物語を組むことにより、イイハナシダナーという結末になっています。

 ラスト、一線を越えようとするみちるちゃんを毬枝ちゃんが止めに入るのは、みちるちゃんが自分で思いとどまる過程をオカルト的象徴で演出したのでしょう。あるいは、本当は凶行に走る勇気なんてなかったみちるちゃんが挫けてヘタレる際に、「霊の声を聞いた」的な言い訳を求めたのかもしれませんが。

第5話「ハメルンのカスタネット

現実に起こっていたこと
  • いじめっ子たちを殺害したのは主人公二瓶自身。
  • 旧校舎に呼び出して奇襲するか何かして、普通に殺害。彼岸花に見せられた幻想シーンこそが事実。
  • ウサギの頭数が増えたのは、動物飼育を廃止したという隣の学校から誰かがこっそり移したため?
オカルトの解釈

 メインの解釈は第一夜感想に書きました。いじめっ子たちに復讐し、苦しめぬいた上で殺害した二瓶くんでしたが、後になって怖くなって記憶を遮断。あれは妖怪の仕業で、自分はウサギを殺しただけなのだと思い込もうとします。ただし自分を騙しきることもできず、「人を殺したことを自覚しろ」という内なる声につきまとわれます。作中のオカルト描写では、この自責の念が彼岸花の姿を借りて現れていました。終盤で彼岸花が見せた幻想は、まさにフラッシュバックです。

 と、大筋については分かりやすく解釈できるのですが、細部の辻褄を合わせるのはなかなか難しい話でもあるんですよね……。増えたウサギの謎については、「隣の学校でも動物飼育が廃止されて云々」という記述がわざわざ出てきたので、行き場をなくしたウサギを生徒の誰かがこっそり預けた、と考えることが可能です*7。ただラストで二瓶くんが死んだように見えるシーンは、ちょっとお手上げ。金森先生みたいに何らかの理由で二瓶くんも勝手に失踪(事故死)し、たまたま同時期に何かの手違いで職員室と音楽室の札が入れ替わっていたことから、「ハメルンのカスタネット」の怪談話が自然発生した……と考えられなくもありませんが、ちょっと情報が少なくてなんとも言えません。まあ今回の記事の趣旨は「設定考察」ではないので……。

ハメルン

 二瓶くんの殺人を代行する便利な存在。上で「人間の犯した罪を肩代わりする」例に挙げたベルンカステルや夕闇のスミレは「本当に悪いのは人ではなく悪魔(妖怪)だった」という理屈で人の善性を守っていますが、ハメルンの場合は二瓶くんがさらなる凶行を重ねる際の言い訳として使われています。魔法=オカルトが悪しき力として振るわれるケースもある、ということですね。

 彼岸花に「やり過ぎ」と認識されたのは、オカルトを隠れ蓑にして殺人のような"おおごと"を能動的にやらかした*8せいでしょう。オカルトは根本的に不確かなものであり、人の認識の隙間をぬってようやく存在しているにすぎません。オカルトの名のもとに人が死ぬようなことが何度も続けば、やがて世俗的・組織的なミもフタもない"捜査"がはじまり、事実が白日のもとに曝されてオカルトは跡形もなく消え去るはずです。うみねこ風に言うと、魔法は反魔法の毒素に耐えきれないというわけです。

第6話「とある少女の一日」

 全編が幻想ですから、特に解釈の必要はないでしょう。死んだ女の子の霊を慰める、ささやかで優しいifの物語です。

第7話「ユートピア

現実に起こっていたこと
  • 大住玲子は最初から存在しなかった。本編中で大住玲子が受けたいじめは、本当は主人公榊が受けていたもの。
  • バスの事故は単なる偶然。榊は「運の良かった人」。
オカルトの解釈

 本編中の彼岸花ちゃんと毬枝ちゃんの対立は、榊さんが感じている「死にたい気持ち」と「生きたい気持ち」の葛藤を二人の口から語らせたものです。漫画表現とかでよくある頭のうえの天使と悪魔みたいなもの、と考えてよいでしょう。いじめっ子の尾崎くんが一時的に大人しくなった流れはよくわかりませんが、たまたまなにか別の理由があったにしろ、ほんとに夜の校舎で怖い思いしてビビっちゃったにしろ、「尾崎くんが大人しくなった」という結果に「めそめそさんに脅されたから」というオカルトな理由が後付けされた構造は変わりません。このあたりはまあ、読解上たいして重要なところではないでしょう。

 彼岸花ちゃんには物語を先に進めたりオチをつけるための狂言回しっぽい役割があるわけですが、今回のバス転落事故はその極めつけでしたね。そもそもバス事故(の必要性)が先にあって、そこに単なる偶然以上の理由付けを持たせるために無理矢理彼岸花ちゃんを登場させた……と見れば、通常現実に対して人を転ばせる程度の影響力しか持たない彼岸花ちゃんがなぜこの時ばかりバス転落事故なんて大事をなしえたかの説明になるでしょう(いちおう、「転ばせる」能力ではあるんですねー)。

夕闇のスミレ(大住玲子)

 人間としての玲子ちゃんは「理想的*9ないじめられっ子」*10、妖怪としてのスミレちゃんは「いじめの仕組み」そのもののオカルト擬人化です。いじめの仕組みを妖怪とすることで問題が逆に一般化・抽象化され、その場限りで有効な特殊解が排除されるという理屈は第一夜感想に書いた通り*11

 終盤の皆の記憶から玲子ちゃんの存在が消えている以上、現実世界では玲子ちゃんなんてはじめからいなかったと考えるのが妥当でしょう。ご丁寧に「それまで玲子が受けていたいじめも榊が受けていたことになった」旨の記述が出てきますし、本編中で玲子ちゃんがいじめられている間も、現実の榊さんはずっといじめられていたのだと思います。防衛機制とか逃避とかその手のアレで、「いじめられてるのは自分ではない」と思い込もうとした結果、いじめられっ子の「大住玲子」という別人格が生まれたという解釈も……伏線がないためちょっと悪読みがすぎるかと思いますが、状況には合うでしょう。

 玲子ちゃんを一人の人間として考える場合も、「いじめは心の栄養なんだよ」という思想は興味深いです。自分はいじめから逃れられないという諦観から、いじめられっ子である自分を肯定する理屈をひねり出したのだと思いますが……オカルト的でないとはいえ、「自分を騙して*12不遇な現状を肯定する」この発想、実に「魔法」的だなと思います。

 ひと通り書いてみましたが、全部現実で説明しようとするとやっぱり強引なところが出てきますね。最初に書いた通り、設定考察ではなくテーマに沿った超読解、くらいものと思ってください。『彼岸花』自体、現実/オカルトの二重化が根本的なテーマかというとそういうわけでもないと思いますし、第二夜の方ではまったく別の方向に舵を切る可能性もあります(彼岸花ちゃんはじめオカルトキャラの人格描写に尺を割くとか、もう完全に伝奇バトル方向に行っちゃうとか)。そっちの方はまったく情報を仕入れてないので次回があるかどうかの分かりませんが、とりあえずプレイしてから考えてみることにします。

*1:特に1話、2話は現実/オカルトを二重化する仕掛けがほとんど読み取れないので、真相を論じる必然性自体が希薄です

*2: うみねこ追加TIPS「魔女の七夕は甘くない」とか。

*3:たとえばうみねこの魔女、特に終盤のベルンカステルなんか、役割としては戦人や縁寿を「あの結末」に導くための噛ませ犬そのものですし、しかもお茶会とか見てると本人たちがそのことを自覚して行動してるフシもあります。

*4:小島アジコさんとこの「いじめについて」で書かれているような、妄想なんてそんな簡単に信じ込めるわけはないけどそれでも妄想するしかない、という感じ。

*5:これも、幻覚として実際に見えていたかどうかはともかく、自分に対する空想の慰めとして。うみねこの真里亞や縁寿にとっての魔女同盟の面々みたいなものですね。

*6:玲子ちゃんに関しては、主人公意外の記憶から消滅したという描写ですけど。

*7:案外、ウサギを預けた犯人って、二瓶くんと鉢合わせした毬枝ちゃんだったりするのかもしれませんね。「見覚えのない他校の生徒」が、「見覚えのない同級生の幽霊」である毬枝ちゃんの姿で描写された、とか

*8:ここを突っ込んで考えると、二瓶くんは「ハメルンのカスタネット」という怪談を隠れ蓑にして、これからも殺人を繰り返していくつもりだったことになりますね。

*9:理想気体とか、ああいう意味での「理想」。

*10:「彼女をいじめる者は、いじめの楽しさに取り憑かれてしまい、魂が堕落して、いじめっこに成り下がってしまうのだ」ですからね。この文章がもうツボでツボで。

*11:いじめっ子たちの所業を「彼らがあんな酷いことしたのは妖怪に惑わされていたせいなんだ」と捉えることで、「ほんとに心からいじめを楽しむような人間はいなかったんだ」という慰めを見ることもまあできますが、ラストであんなことになっちゃってるのであんまり後味よくはならないですね。

*12:魔法を優しく肯定するうみねこの文脈的には、こういう言い方は酷薄ですが。