そして優越感ゲームが始まる - 法月綸太郎『密閉教室』

新装版 密閉教室 (講談社文庫)

 事前に聞いていた前評判をふまえて、「青春の自意識粉砕小説」として読みました。探偵として振る舞おうとする主人公の全能感は終始滑稽。読者から見れば歩くたびにメッキが剥がれていることが丸わかりなのですが、主人公はそれに気づかず、妙にキャラを作って気取った言動をする。事件の本質に関係のない些末な部分で、級友のごく私的な内心を暴露して悦に浸る。探偵自身の能力がしょぼいので規模は大したことないですが、おおよそ探偵が探偵として取りうる下衆な行動の大半が、ここに含まれていると思います。

 自覚的悪人として振る舞うメルカトル鮎さんなんかと比べても、この主人公は完全に無自覚である分タチが悪く、なおかつ遥かに小物です。作為的なものか作者の手癖かは分かりませんが、登場人物の台詞は丸っきり「役割語」になっていて、主人公も演劇の台本を丸読みするような「探偵語」を喋ってくれるので、滑稽さはさらに際だちます。そんなだから、本作の隠れた意向である「主人公自身に対する批判」が前景化していない序盤から中盤にかけての段階は、かなり読み心地の悪さを感じていました。

 自意識糾弾小説としてよくできていると思いますが、不満もいくばくか。本作で描かれる自意識は良くも悪くも「米澤穂信以前」という感があり、今読むとちょっと詰めの甘さを感じたことは否定できません。後でも述べるように、主人公の自意識を批判したところで話を終えてしまって「批判者*1」自身への自己批判がないため、結局やっていることが優越感ゲームの一手に過ぎなくなってしまっているからです。「そこは米澤穂信が*年前に通過した場所」みたいな文句のつけ方は二十年前の作品に対して的外れなのですが、少なからず時代性に影響される要素ではあるのでしょう。逆に、本作の糾弾がド直球に響いた人から見ると、米澤さんの精神性の方が手ぬるく感じたりすることもあるようです。*2
 

 自意識語りから離れたところでも、ミステリ批判として読める部分があり、やはり基本的に自己否定の姿勢が一貫しています。主人公の「探偵的ふるまい」に対する痛烈な糾弾などが、この中心部でしょう。「ロジックの遊戯にうつつをぬかし」、死んだ級友の人格など眼中になかったと指摘される主人公。現象優先で人間心理を顧みず、トリックの推理だけで事件を解決しようとする探偵行為を批判する、典型的な論法です。

 その一方で、やはりこぼれ落ちている視点はあります。「ロジックだけでは核心を掴めない」と主人公を糾弾する登場人物の言葉は、「作中善」を体現していると考えてよさそうです。ところが実はこの人もまた、「犯人の人格的傾向を根拠に、本人のいないところで勝手に犯行動機を組み立てる」ことをやっています。これは「現象面のトリックだけを見ていてはいけない、人間心理こそが重要なのだ」という話に読めますが、むしろ「他人の私的内面を一方的に想像して、まるでそれが事実であるかのように"動機"を語る」ことに疑問を感じない風潮こそ、推理小説的精神性のもうひとつの悪癖であるようにも思えます。

 たとえば森博嗣さんは昔から「犯人の内面を描くこと」に消極的で、最新のGシリーズなどでは遂に「トリックだけが説明され、犯人の動機は語られない」のがデフォルトの姿勢になりました。これは現象とロジックだけに注視して「人間心理を蔑ろにしている」のでは全くなく、実のところまさにその逆。「探偵ごときが他人の私的内面を理解できるはずはないし、おいそれと語っていいものでもない」という一貫した姿勢があるからです。

 本作は明らかに「そういう作品じゃない」ので、ここに挙げたような視点を求めるのはお門違いだと思います。実際、これらの要素が本作の欠点になるかというと、全くそんなことはないでしょう。ただ一応、本作で描かれる「自己批判」の先に連なる問題意識として、手を伸ばせば触れられる範囲の話題でもあるかと思います。どうも作品の感想というよりも持論整理の側面が強い文章になってしまったかもですが、うまいこと書き留める機会が巡ってきたということで。

*1:この場合、作者自身とか

*2: http://d.hatena.ne.jp/rindoh-r/20061223/p1