さやかちゃんが天使になる映画の感想かきます - 『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』

 3回観ました。5回10回と観てる人からすればどってことないと思いますが、自発的に映画館に行く習慣がほぼない私にしてはちょっと異常な数字でして、まあめちゃくちゃ気に入ったと言えます。封切りからだいぶ時間も経ってレビューや考察等も出尽くした時期だと思いますが、初視聴時の印象を大事にしたいと思ってよそ様の情報をあまり仕入れずこの感想を書いてます。何番煎じだって話も多いと思いますがご容赦ください。ネタばれます。

 もともとアニメ自体をあまり観ないたちでして、ここ数年リアルタイムで観たTVアニメは本作と『あいまいみー*1くらい。どうして本作を観はじめたかといえば「なんか周りで話題になってたから」としか答えようがなく、ニワカと言われれば否定のしようがありません。それでも継続的に最後まで視聴したのだからそこそこお気に入りの作品ではあったのですが、やー、この劇場版には本当にやられました。観終わってから、「あれ? 私こんなにまどマギ好きだったっけ?」と自分で驚いたくらいです。

TV版について

 そもそも、私がまどマギを好きなのはさやかやほむらなどのキャラクターあってのことで、TV版のシナリオ自体はさほど好みというわけでもない……なかったはずです。これは別のところでも書いたのですが、なんていうかTV版って悲劇のご都合主義のようなところがあるじゃないですか。魔法少女たちが魔女化やら何やらの露骨にエゲつない運命を背負っていて、「それが何かを祈った対価だ」「魔法少女の犠牲の上に成り立つのが今の世界だ」と現実の苛酷さをアピールしてくるんだけど、そもそも個人としての魔法少女たちがこんな目に遭ってしまう大本の原因は作品世界のセッティングにあるわけでして。いくら現実世界が過酷だからって、「進歩や維持に必要な犠牲」がこんな露骨に特定個人にだけ集中するような露悪的な作られ方はしてませんでしょ、という反発心がごにょごにょ。

 別に人間に圧力をかけて人間性を絞りだすような作品作りも手法としてぜんぜんアリかとは思うんですけど、そうやって演出されたきわめて作為的な「少女残酷物語」を、「現実世界の厳しさ」とか「人間性の本質」として一般化する人の物言いには辟易します。まあ作品としての「まどかマギカ」自体にそんなメッセージが込められているかというと微妙なんですが、「虚淵」「鬱展開」といったキーワードの元にその手の語りを誘発する作りは確実に企図されていたとは思います(前評判で既に「血だまりスケッチ」なんてフレーズが認知されていたところからして、「萌えアニメだと思ってたのになんて鬱展開だ!」って騒ぐ「用意」をしていた視聴者が相当数いることは疑いないですし、このへんは共犯関係と言えるのかなと)。

 なもんで最初はけっこう屈託した感情を抱えていたのですが、ニコニコとかpixivとかで好き勝手に動きまわる可愛いキャラたちをボヘーッ見ているうち、そんな反発心がどうでもよくなりました。私はこのキャラクターたちのことが好きで、その感情の前では作品をとりまく漠然としたいけすかない状況なんて些細なことだと思えたんですね。だから私にとってまどマギは物語やテーマよりもまずキャラクターアニメであり、作品世界に押しつけられた無茶振りになんとか抗おうとする彼女たち、あるいはそんな圧力と無関係なところ(二次創作とか)でみんな好き勝手にわいわいやってる彼女たちの姿を眺めるものでした(もちろん、作品本編のああいう展開があってこそ今のキャラクターが成り立っているわけで、「彼女らを酷い目に遭わせるあんなシナリオ赦せない!」とか言いたいわけではないんですが)。

不安および期待

 ですから、新作の劇場版にわりと不安があったのは事実です。またぞろTV版のように彼女らが酷い目に遭い、そこから生まれる極限的なドラマが現実の厳しさや人間性の本質になぞらえられていく……みたい光景は、あまり目にしたいものではありません。まあそんな個人的な屈託で嫌よ嫌よと言いつつエンタメ的に面白ければとりあえず満足できるでしょうし、彼女らの行く末を見届けないなんて選択肢もありえなかったので、もちろん楽しみにはしていたんですけれど。

 いっぽうで「叛逆の物語」というタイトルには期待もありました。「叛逆」が誰の何に対する叛逆を指しているかがポイントで、ここ次第で話の方向性が大きく変わってくるわけですが、私が最初に思い浮かべたのは「神となったまどかの"法則"に対する、魔法少女自身による叛逆」でした*2。TV版は「まどかの決断」と「作品としての結末」が収束する形であのエンディングが導かれていて、さらにまどかが神になったことも相まって「作品世界における"正しさ"」*3が法則化され、肯定された状態で幕を閉じます。まどか一人に業が集中したそんな状況を良しとせず、まどかの友人であるほむら(やさやか)あたりがあえて反旗を翻す……みたいな光景が、私がこの劇場版に期待したものだったんですね。

悪夢的な序盤

 で、いざ観てきたらこの期待がドンピシャで私大勝利だったわけですが、まあ順番に。

 前作の顛末など何もなかったかのように続く序盤の幸せな光景はどこか夢のようで*4、戦闘シーンも前作のように血なまぐさいものでなくメルヘンチックでミラクルな機序を持ってくる徹底ぶり。前作の底意地の悪さを考えると、これらの光景は逆に悪夢的にすら見えました。

 あんまり何でもかんでも過去の作品を引き合いに出してオマージュオマージュ言うのは好かないのですが、さすがにここは『ビューティフル・ドリーマー』を意識してるんだろうな、という画面もちらほら。前半は全体的に茫洋として冗長で没頭感を削がれるところがあったのですが、これなんかも一貫性のないふわふわした夢心地の演出だったんだろうなとあとから振り返ると思います。ピュエラマギ・ホーリークインテットの全員変身シーンなんか、明らかに物語のペースを阻害するレベルの長い尺を取って話の腰を折りにきてますもんね。

 力入りまくりで単発映像としても見応えがあり、ほとんど悪ノリに近いこの変身シーンといい、さやかと杏子、マミさんとベベの仲に代表される露骨に二次創作的なイメージといい、「都合が良すぎる、世界の文脈そのものがどこかで間違っている」という強烈な不安感を煽られる光景が連続します。初見時はこれ大丈夫なのかとかなりドキドキしたんですが、振り返ってみるとまあ見事にハマっていましたね。ほむらが明示的に言及する前から鑑賞者に違和感を抱かせることに成功していたわけで、見事な表現だと思います。夢というタテマエの元、二次創作的なイメージをまんまと本家世界の中に取り込んで既成事実化したという点でも、上手くやったと言えるんでしょうか。さやかと杏子、マミさんとベベが仲良くなれたのは嬉しいので、個人的には大歓迎です。

さやかが好きなのでさやかの話をします

 ほむらが違和感を自覚するとともに画面は本格的に悪夢的に変貌し、見滝原循環での杏子との調査、マミさんとのガン=カタバトル(リベリオンなだけに)を経てさやかとの会話に。こうして見ると、ほむらとの関わりを軸として全キャラ順番に見せ場を回していく構成なんですね。本心は見せずとも目的を共有することで一時的な協力関係を築ける杏子との関係、互いにどこか屈託があり対立してしまうマミさんとの関係、などはTV版での関わり方を再演するかたちになっていますが、共闘を経て情が厚くなったのか、個人間のより突っ込んだ感情が描かれていたのが嬉しかったです。

 そんな中で、唯一さやかだけはポジションが違います。さやかのことはTV版の頃から好きだったんですけど、その理由はたぶん「物語の要請的にいちばん割を食ってるから」なんですね*5。さやかは「魔法少女の背負った業」を視聴者に示すためのいわば生贄みたいな役回り*6で、中盤出ずっぱりで引きずり回されていろいろ酷い目に遭った挙句、最終的には「ほむらとまどかの物語」というクライマックスの舞台に不必要な存在となって劇中から退場します。最終話でいくらかフォローがあるのでキー脚本ムカつくーとかは思わないものの、なんか一部ネットでも「さやかは面倒くさいメンヘラ」「不人気」「いらない子」みたいな扱いをされてたりしたので、いろいろ思うところもありました。ザラキーマ投げつけたろか。

 で、そのさやかにまた再び出番が回ってたわけですから、そりゃ嬉しいわけです。テンション上がるわけです。しかも今回のさやかはひと味違います。前作のさやかはシナリオの都合による理不尽な負担が集中してドン詰まりの状況に追い込まれていたわけですが、今回はもう魔女化の運命からは解き放たれてますし、神であるところのまどかの協力者としてほむら以上にメタな立場で状況を把握できてるしで、なんというか余裕があります*7

 ある意味では狂言回しみたいな役回りなので、今回も物語に都合の良いように使われてるといえばその通りなのかもしれませんが、そこはさやか自身が納得ずくで行動してることが大事なのでしょう。世界が偽りであることを全部知った上で、その中に生きる人々の思いはかけがえのない本物であることを理解し、守り、肯定しようとする。なんか幸せそうですし、言うことないです。尊い

断ち切られるさやほむの可能性(真顔)

 ほむらとさやかは共にまどかの友達というポジションにいるわけですが、ほむらがまどか自身の意思をはねつけてでもまどかを救おうとするのに対し、さやかはあくまでまどかの協力者として側にいようとします。こういう場合、「相手の気持ちを尊重しなきゃ駄目だよ」的な教訓の元にほむらのスタンスを批判してさやかを肯定するような展開に流れがちなんですが、本作の二人のスタンスはあくまで対置されるだけって感じですよね(ラストのほむらの悪魔化を、「この物語のメッセージが悪と規定した展開、バッドエンド」とベタに解釈する必要は、まさかないでしょう)。あえて物語による上からの価値判断を行わないこの匙加減はキャラクターを主体とする本作の方向性的にも合っていてたいへん好ましく思いました。

 ところで、何でも独りで抱え込んでしまうほむらの性格を劇中最初に指摘したのは、実はまどかでなくさやかです(「また自分だけの時間に逃げ込むつもり? あんたの悪い癖よね」)。これ、前作からずっと独りで突っ走ってきたメタ記憶の持ち主であるほむらが、諸々の事情を踏まえた対等な誰かに初めてその気負いを咎められるシーンでもあるんですよね。その後まどかも「独りぼっちになってはいけない」とほむらを咎めるんですが、二人の言葉はあの通りどこかですれ違い続けます*8。そもそもまどかって、TV版がまさにそうだったように最終的にほむらの気負いまで肩代わりして独りで勝手に先に行ってしまいそうなところがあるので、ほむらの生き方そのものを巡って真正面から衝突するということはなかなかなさそうです*9。とすれば、対等なところからまともに向き合ってケチをつけてきた今回のさやかって、ほむらにとって実はけっこう得難い存在だったんじゃないかなと思います。

 ほむらとまどか、さやかと杏子の間にあるような特別な繋がりが、ほむらとさやかの間に存在しません。さやかにしてみれば、同じく魔女に堕ちたもの同士の共感や、唯一旧世界の記憶を引き継いで最期まで戦い抜いた戦士を労おうとする感情が大きいのかもしれません。ですが、互いに相手を特別視しておらず、巡り合わせによる偶然の「縁」で繋がっているだけの関係だからこそ言えることも、あるいはあるんじゃないかなと思います。だからこそ、そんなさやかたちとの縁を断つラストのほむらの姿がより痛々しく見えるわけでして……(痛々しくなかったですか? あ、そう)。

お花畑の会話

 ほむらとまどかが思いを伝えあう(そしてすれ違う)お花畑の会話。このシーンについては、何をどう解釈して語っても野暮になるという気がします。光景を観て、声を感じ、交わされた言葉から生まれた感情がすべてなのでしょう。尊い

ほむらの魔女化からホムリリィ戦へ

 ほむら魔女化からのキュゥべえ解説パート。ようやく出番を得たキュゥべえがのっしのっしと歩いくてくるシーンの映像と音楽の荘厳さ、作ってる人たちノリノリだったんだろうなあと思います。こっからひたすらキュゥべえの長台詞に入るわけですが、説明の情報量に呑み込まれずに耳を傾けたいのはやはりほむらのひとつひとつの叫び声で、まあ辛い。

 続いて魔法少女たちと魔女ほむらの決戦がはじまり、素敵なお歌と映像的なクライマックスでお脳のテンションが否応なく上がります。さやかは魔女になってもかわいいし、杏子とは背中合わせの恋人つなぎ、マミさんは列車砲、ベベ人間形態はやっぱりどう見ても&聞いても羽入っぽい、量産型キュゥべえざまあ、とサービス演出選り取りみどり。あとホムリリィvsオクタヴィアの絵面、ちょっと巨大ロボットバトルぽいと思いました。

 杏さやの恋人つなぎとか「「わけがわからないよ」」とかの二次創作的なイメージはちょい過剰に感じましたが、原作を超えたところにあるイメージを拝借する以上は制御できない個人差が生じてしまうことも仕方なく、まあこの嘘っぽさも含め「偽りのクライマックス」として整合とれてるのかなとか思います。偽りだろうが借り物のイメージだろうがあそこにいた皆が本気でほむらのことを助けようとしていた気持ちだけは本当のこと、紛れもなく尊いことであって、だからこそ、そんな皆の気持ちを知りつつも振り切ることを選択したほむらの心中は想像を絶するのです(まどかはともかく、それ以外の誰かを裏切ることについてほむらが葛藤していた描写はないので、こんなもの私の願望にすぎないのですが、でもそうだったらいいなあと、本当にそう思います)。

ほむら悪魔化

「叛逆の物語」というタイトルの意味するところが私の期待通りだったので、この光景が見たかったんじゃ〜と心の中で快哉を叫んでました。世間的にもいちばん語られてるところでしょうから今さら何を書いても二番煎ですが、いちおう私が事前情報あんまなしの希望的観測まじりで受け止めた光景を整理すると

  • ほむらの言葉をそのまま信じるなら、彼女が奪ったのはまどかの人間部分+α程度で、ぶっちゃけ円環の理の「魔法少女を絶望から救う機能」にはさほど影響ないんじゃないの
  • (まど神様から人格が奪われること自体、それを救いとしている魔法少女にとって辛いことかもしれないけど、特に描写がないのでなんとも。さやかは嫌がりそう)
  • 「まどかを永劫の孤独から救うため」みたいな感じで誠心誠意説明すれば、さやかや他の魔法少女の理解を得ることは十分可能だったんじゃ? と思うのだけど、そんな選択を考慮に入れずあえて悪魔としてまどかを「奪う」かたちを選んだのは、「まどかを自分だけのものにしたい=まどかを自分自身の手で救いたい」というほむら自身の欲望(愛)がまずあったからかしら

 という感じ。どうにもほむらは自分を悪魔"ということにしておきたがっている"風に見えるんですよね。そもそも悪魔という呼び名自体がほむらの自己申告にすぎないので、原理的な悪として規定された「悪魔」なるシステムがあの世界に初めから存在したということはなさそうですし(まどかだって、キュゥべえ魔法少女たちが勝手に神と呼んでるだけです)。

急に色気づいたほむら(本作最大の見どころ)

 そういえば悪魔化以降、ほむらが妙に色気づいて、今までだったらありえないような*10気取ったポーズを取りまくるようになっています。終始いやらしくニヤニヤしてたり(かわいい)、一挙一動が芝居がかってたり(かわいい)、誰も見てないのに夜中に独りで踊ってたり(めっちゃかわいい!)。もう眼福眼福って感じなんですが、いきなりはっちゃけはじめたほむらの心情に思いを馳せると複雑なものもあります。

 悪魔化に際し、ほむらは自身の欲望と自覚的に向き合うようになりました。欲望のために生きる、と吹っ切れたことで自身に強いてきた節制がなくなり、ああいうちょっと自己愛的な「お洒落」をかまして悦に浸るくらいの余裕ができた、という風に見えます。別にほむらがベタにそう考えたわけではなく、画面への演出的な現れとしてああいう姿が描かれたくらいに見るのが自然かと思いますが、ベタだったとしてもそれはそれでかわいいです。アリです。

 ただそれだけではなく、自分が悪魔の「役」を任ずることになったため、自他を騙す演技として努めて「悪魔っぽく」振る舞い始めた面もあるんじゃないかなーと思っています。これからも悪魔としてまどかを誘惑し続けないと、彼女は再び神として目覚めてしまうので、もうただ単純に心を通わせることはできそうにない。(これは作中描写されていませんが)さやかたち他の魔法少女との縁も自ら断ち切ってしまった。「悪魔」という配役になりきることで、そのへんの悲しみを無理して突っぱねようとしている風に、私には見えます。

 かつてマミさんは、悲惨で孤独な自分を鼓舞するため*11にあえてコッテコテの戦闘魔法少女スタイルで身を包み、必殺技に名前つけたりなんかしてました。それと同じような方法を、ほむらも採ったんじゃないかなと。彼女の場合はやや邪気眼*12というか、悪役のフリするためにワルぶってるニュアンスも出てくるので、あとでふと冷静になって思い出し赤面などしてる姿を想像するとたいへん良いです。いずれにしても慣れないことをしようとしてちょっと無理してる感があり、かわいい。たいへんかわいい。

 私がこの映画でいちばん感極まった場面は、本編中ではなく『君の銀の庭』が流れるエンドロールでした。時系列に進む物語が終わってエンディングが流れ始めることで「いま目の前にあるシーン」の制限から解放され、作品全体の印象、感慨が頭のなかに一気に押し寄せてくる。踊るまどかとほむらの影、歌詞のいちフレーズいちフレーズがまた絶妙に連想を刺激してくれるので、思考が飽和するというか、初視聴時などはちょっとしたショック状態に陥っていて、ほげーと口開けてスクリーン眺めながら放心してました(よい映画やゲームのエンドロールではよくあることのなのかもしれません)。

 TV版は物語のためにキャラクターが配置されているタイプの作品だったので、本作が思いっきりキャラクターに寄り添う方向に振ってきてくれたのは嬉しい誤算でした。TV版の世界観として3話以降終始強調されていた「世界は過酷である」的な圧力が今回はバッサリと排除されていて、ほむらの葛藤や選択、人間関係といったきわめて個人的な問題に描写の的が絞られています。独りになるなというまどかやさやかの言葉と、独りで思いを貫こうとするほむらの決断、それぞれの気持ちはあくまで登場人物たちの織りなすひとつの「光景」として描かれ、物語が上から倫理的な価値判断を下すことはありません。ほむら魔女化のくだりは「鬱アニメ*13」的なイメージを楽しみたい人向けのサービス演出がされているとは思いますが、それを真に受けてに悪堕ちとかバッドエンドといったパターンで捉える必要はないでしょう。全てを見終えた後、私はきわめて厳かな気持ちになっていました(あの気持ちはそうとしか表現のしようがありません。尊い)。

 で、続編があるんですよね。多分さやかのメタ記憶はどんどん薄れていって、やがて「ほむらが悪魔である」ことと、神としてのまどかを失った喪失感だけを覚えているようになる。ほむらもあくまで自分が「悪魔」であるように振る舞うはずですから、もはや最初の理由は忘却され、かつて「何か大きのものの一部」だったさやか率いる魔法少女勢 vs ほむほむ悪魔軍団 みたいな構図だけが残る。悪役としてのポジションを貫き通し、かつての仲間たちを相手取って不毛と知りながら戦いに明け暮れるほむら。まーた少女残酷物語やらバトロワ的な展開に振れかねない火薬臭い状況ではありますが、せっかく映画版でこうしてキャラクターに寄り添う方向に舵を切ったのですから、今後もそっちの方向に進んでくれればいいなあと切に願います。ていうか今のさやかちゃんって大きなものの一部、つまりまど神様の使いであって、神の使いといえば当然天使なわけですから、「さやかちゃんマジ天使」なるフレーズが改めて公式に実現されたことになりますよね! さやかちゃんマジ天使! さやかちゃんエンジェル! 続きも楽しみです。

*1:どっちもニコニコの配信でしたが。

*2:参考 https://twitter.com/valerico/status/320912956160348160 https://twitter.com/valerico/status/397751518637481984

*3:今回のほむらの悪魔化が「バッドエンド」を意味しないように、メタな意味で作品がその結末を倫理的に肯定/否定しているかどうかとはいちおう別の話ですが。

*4:実際、最初のナイトメア戦では画面端に夢演出的な縁取りがありましたし。

*5:参考 https://twitter.com/valerico/status/260692360571277312

*6:それを言うとマミさんも「人死にの出る過酷な世界観」を示すための捨て駒的な役回りだったわけですが……。

*7:ラストでまどかを失った後は再び寄る辺ない感じになってて、ちょっと痛々しいですが……。

*8:そのすれ違いが必ずしも悪しきこと、解消すべきこととして描かれず、あくまで一つの光景としてそこにあるのも素敵ですよねー。

*9:さすがに次の続編はそういう方向に行きそうですけど。

*10:演出的なシャフ度とかはこれまでもありましたが、悪魔化以降はもう明らかにいろいろ過剰。

*11:と私は思ってます。

*12:揶揄のニュアンスを持つ中二病とか邪気眼といった言葉はあまり好きではないのですが、まあ。

*13:こういう風に作品を雑にくくる言葉は好きではないですが。