2008年のまとめに代えて、『ハローサマー、グッドバイ』感想

 今年は時間的な問題で例年ほどたくさんの小説を読めませんでしたけど、それでもいくつかの"凄い"小説に触れることができました。それは『北方水滸伝』であり、『笑傲江湖』であり、『闇の公子』であったと思います。いずれの作品も、私の頭の中にある「読書」という概念のありかたを、また少し変質させてくれました。

ハローサマー、グッドバイ (河出文庫)

 ただ、今年読んだこれらの作品の中でベストとなるものをあえて一冊を選ぶなら、およそ30年も前にマイクル・コーニイによって著され今年日本で復刊された『ハローサマー、グッドバイ 』を私は挙げます。

 ある意味では不幸なことに、本作はそのすばらしさを具体的に説明できる種の作品ではありません。なぜなら本作は描写力や表現力といったものを何よりの武器としていて、何かぱっと聞いて分かりやすい掴みや売りを持っているわけではないからです。たとえば本作を青春小説、SF小説と呼ぶことは可能でしょう。でも、そういった言葉は結局説明に過ぎず、それでこの作品の凄さを伝えたことになるとは思えません。*1

 この作品世界にはやりきれない不条理が存在し、それに対抗する希望もまた存在します。けれど、その最後の希望によってすらも救い出すことができず、ただ失われてしまう"その他のもの"の存在についても、本作では描かれています。本作が青春小説として極めて優れている理由は、ひとつにはそういった"救われないその他ものの"が直視されている点にあるでしょう。ただ、それがつまり具体的にどういうことであるかというのを、こういった説明はやはり伝えていません。それは、人が作品を手に取ることによってのみ知られるべきものなのです。

 ともかく、『ハローサマー・グッドバイ』は読まれるべき作品です。なぜそれを読むべきかを説明することができないがゆえに、だからこそ読まれるべき作品なのです。「その人の幸せのために、押しつけてでも読ませろ」というのは、まさに本作のような作品に関するものを言うのでしょう。私に本作を読むよう促してくれたid:trivialさんには、感謝してもしきれません。


 ……あー、あとええと、以上は今年読んだ小説の話でしたが、そのジャンルを「今年触れた作品」にまで広げるなら、そのベストはもちろん当然のことですが『うみねこのなく頃に』で完全固定です。だってうみねこって、『ハローサマー・グッドバイ』のラストの展開に並ぶかそれ以上の衝撃がほぼ一・二時間に一回とかくらいのペースで何度も何度も襲いかかってくるんですものね! もうね、誰かに見せてるわけでもないのに、誰もいない一人の部屋で「うええ、うぐええー」とか声漏らしてリアルにぶるぶる震えながらテキスト読み進めたりしてるわけですよ。知ってますか? 人間って、フィクション作品の与える興奮によって手足や脇腹が痙攣したり、過呼吸状態に陥ったりするんですよ? なんの比喩でもなく単なる生理現象として、フィクションは人間に対しそれほどの力を持つのだということを私に教えてくれたのがひぐらしうみねこという作品です。

 そういえばとても意外なことに、私に『ハローサマー・グッドバイ』を勧めてくださったid:trivialさんは「うみねこ」をプレイしてないそうです。「ひぐらし」がどうしても肌に合わなくて完全に諦めた的なことをお聞きしましたが、これは「もし『ハローサマー・グッドバイ』がしょうもないギャルゲーフォーマットに乗っていたとして、それが退屈だから読まない」という選択に人が納得できるかどうかという問いかけであります。とゆうかそもそも「ひぐらし」と「うみねこ」の作品としての"凄さ"って桜庭一樹さんの『Girl's Guard』と『赤朽葉家の伝説』くらい差があるわけで、そういえば私の周りにも「ガールズガード読んで桜庭一樹はいまいちだったから赤朽葉家とか読む気にならない」って言ってる人がいてこいつどうしてくれようかと思いましたけどこれはつまりそういうことなんですよ! 完成度がどうなったとかじゃなくて質が変容してるの! ひぐらしの最初五時間のことは忘れてあげて! 罪を犯した子供達に更正の機会を! そんなつもりじゃなかったの! 若気の至りで! ついわざとうっかりで! い、一回くらいの失敗も大目に見てくれないこんな世界ーー!! (じたばたもがきつつ両脇を抱えられて退場)

*1:そういったものを表現できる高みに私が達していない、ということでもありますが。