文脈をいじくりたおす - 舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日(下)』

ディスコ探偵水曜日〈下〉 (新潮文庫)

 面白かったー!「文脈によって真相がどんどん後付けされていく」という体裁で書かれている本作ですけれど、最終的にあらゆる伏線が収束していったことを踏まえると、舞城さん自身はかなり計算ずくで長期的に伏線を制御していたとしか思えません。もしこれを完全にライブ型で書いていたのだとすると、それこそ本物のモンスターです。そっちの方が夢があって面白いという話もありますが、そんな超人的な力を見せつけられるのはワナビ的にはちょっとした絶望です。スペック以前にものが違いますよこれ。

大人の事情はどうでもいいのだけど

 ほとんど文句もなしに褒めちぎりたいのですが、梢式*1がらみで社会批判をぶつくだりにだけは、微妙に納得いかない感覚が残りました。というのも、世界中の紛争やら貧困やらを劇的に解決するらしい梢式を否定することで、たとえば逆にこういう問題が野放しになってしまうことをどう考えるか、っというディスコの葛藤がただの一行もなかったからなんですね。

「大人の社会を守るために子供を犠牲にする」発想を、ディスコは完全につっぱねています。それは作品が善しとするテーマに合致していますから、まったく問題ありません。でも「何よりまず子供を守る」ことを最優先の行動原理としている終盤のディスコにとっては、大人の事情なんかよりも「一部の子供を一瞬の苦痛から救うために、紛争や貧困で苦しみ死んでいく大勢の子供を見殺しにすること」の是非の方がはるかにクリティカルな問題だったはずです。作品のテーマ的には、本来こっちを徹底的に論じなければいけないのですが、この論点についてディスコ自身の言及は一切ないんですよね。

 本作にとって社会正義どうこうの議論は枝葉でしかなく、ディスコの個人的な納得こそが本旨だった見ることもできるので、こういうところを突っ込むのはちょい的外れかもしれません。それにしても、じゃあ「梢式」なんて露骨に社会的な問題をわざわざ持ち込んだのはなぜという話になりますし、終始圧倒され続けた本作の中で唯一「詰めの甘さ」を感じてしまったのが残念は残念でした。

「文脈」をいじくりたおす

「大きい物語」にしろ小さな物語にしろ、「物語」は現実認識を恣意的に歪めるものです。だからここ最近の私は、口を開けば「物語なんて嫌いじゃー」的なことを言ってるんですけど、そう言いつつもフィクション読んでその「物語」を楽しんでもいるわけで、結局「物語」はそれを好こうが嫌おうが、「どうやったって存在してしまうもの」なのだと思います。

 本作は、「物語」の恣意性にきわめて自覚的で、敏感です。そういう作品って、だいたいは「物語」批判の方に舵を切るものなんですけど、本作はそれでも「物語」=「文脈」を肯定し、文脈が現実を作り出すとまで言い切ります。物語こそが真実となる世界では、物語が本来備えていた悪しき面が完全に消え去ってしまうわけですから、後はもういくらでも肯定的に描けます。もちろん「文脈が現実を作る」なんてファンタジーですから、この論理が通用するのは作品世界の中に限られますが、どうせディスコの個人的な物語なんだし、ここまで強引に割り切った描き方ができるのもまたフィクションならではなのかなあと思ったり。

 あとはやっぱり、水星Cがたいへん面白いです。物語の登場人物類型のひとつに、「物語の正義」を代弁し、「正しい文脈」を示して主人公を導く存在としての「賢者」があります。スラムダンク安西先生みたいな人。イメージは全然違いますけど、「文脈」を示しながら主人公を導いている点で、水星Cもたしかに「賢者」の役割を帯びています。ただ、その機能のさせ方が面白くって。

 自分の望む展開を強引に引き寄せることで、結果的にそれを「正しい文脈」にしていくのが水星Cのやり方です。水星Cの作った文脈の後を追うディスコから見れば「賢者」として機能していても、本人のやっていることはただの乱暴狼藉なので"あらかじめ物語の中に秘められた「正義」の代弁者"としての「賢者」のとまるで正反対です。もちろん最終的には、自分で文脈を作っていく水星Cの姿勢自体が本作の「正しい文脈」とされるわけですが、こういう描き方はなかなか面白い。作品全体を通して、文脈を徹底的にいじくりたおした作品だったのだと思います。

*1:ネタばらしになるため詳細は伏せ。