童話的終末観 - 北山猛邦『『アリス・ミラー城』殺人事件』

『アリス・ミラー城』殺人事件 (講談社文庫)

 物理の北山! デビュー以来ガチガチの物理トリックを書き続けてきた北山さんが「化けた」とされる本作。なんか凄いアイテムらしい「アリス・ミラー」を手に入れるため、孤島の城に集められた八人の探偵たち。当然のように次々人が死んでいきます。犯人はどいつや、探偵たちは生き残ることが出来るのか、という話。

固有の読みを要する作家

 トリックはさすがーというべきもので、現実のアラを探して無理矢理壁に針を突き通すような論理的力技に舌を巻きます。ただ、舞台設定といい演出や伏線の張り方といい、なんとなく読んでいると、作品を取り巻く様々な要素がその面白さを減じる方向に働いてしまっているきらいがあります。その点は、ちょっと惜しく感じます。

アリス・ミラー』に関する超常的な設定然り、解きようもなさそうな謎を"大したことない"と言い切る超然とした探偵の態度然り。こういう設定を前に出してしまうと、"北山さんの作品を読む訓練ができていない読者"は、謎の懐に入る前のかなり早い段階で、またたくまに思考停止してしまうと思うんですね。でも、その先に踏み込んで、しっかり考えた上で謎に魅入られた状態でないと、解決によるカタルシスを十分に享受することはできないのです。(これは『『クロック城』殺人事件』でも思ったことです。)

『クロック城』を読んだ時は、北山さんの演出がまずいのかな? と思いました。ただ、作者のいくつかの発言を総合すると、こういう造型には北山さんなりの必然性もあるようです。曰く、彼の発想する壮大な物理トリックを現実的な世界の上に描いても、どうかんがえても浮いてしまう。非現実的な(ただし論理性はガチガチに固められた)トリックを用いるためには、やはり舞台となる世界自体も非現実的な感覚に覆われていなければならない、と。

 これは理屈として確かに頷ける話で、そういう背景があるのなら、作品の見え方も変わってきます。このあたりの理屈まで含めてひとつの作品の中で説明できればいちばんいいのですが、読み慣れた読者であれば、自分の方から作風に合わせていくこともできます。そういう点で、北山さんは「固有の読み」を要する作家さんなのだと思います。

プロローグもエピローグもない

 本作には、物語の文脈を規定するような、本来あるべき最初の説明段階がありません。「八人の探偵がアリス・ミラーを探しに来た」と一応の設定はあるのですが、それがいったいどういう文脈に置かれているのか、がさっぱり見えてこないのです。登場人物たちに関しても、それぞれが島の外でどういうことをしていたのか、という描写がほとんどなく、"物語が始まった瞬間いきなりそこにいた"という感じなのです。テンプレなライトノベルでよくありそうな*1「僕は何の変哲もない普通の高校二年生、でもある日とつぜん云々〜」みたいな導入部分、ああいった取っかかりがまったくカットされてるわけです。

 ミステリーとしての展開上、あえて登場人物の詳細を語らない、という構成は考えられます。そういう場合、登場人物の詳細は、物語が進むごとに徐々に明かされていくものです。でも本作の場合は、そういった要素すら希薄なのです。背景が分からない謎の登場人物、徐々にその秘密が明かされるのかと思ったら、途中で死んでそれで終わり。そういうパターンが非常に多くて、普通ならエピローグなりなんなりで補足するだろうと思っていたところすらすっとばし、物語はいきなり完結を迎えてしまいます。

 北山さんは、自身の作品を童話的と表現していました。その線で考えると、本作もたしかに童話的です。物語は「あるところに男がおりました」からいきなり始まり、「それから二人はいつまでもしあわせに暮らしました」でやはりいきなり終わります。物語がはじまる前から世界はあったはずだし、物語が完結してからも世界は続いていくはずなのですが、それらの要素が全く無視されている。そういうところがまた、北山さんの多くの作品に通底する「終末観」を彷彿とさせます。実に、奇妙な味わいの作品でありました。

*1:つまり、そんなもの実際にはまず存在しないのですが。