「終末」なき「終末観」 - 北山猛邦『『クロック城』殺人事件』

『クロック城』殺人事件 (講談社文庫)

 単著としては初めて読む物理の北山さん。

 物理の北山と言うだけあって、最大の見せ場となるところの物理トリックはさすがという感じ。ただその発想の面白さに対して、読者の感じる意外性を有効に引き出せていない構図になっていたのがちょっと残念です。

「あれを使って」「このようにする」の「あれを使って」の部分はわりと簡単に予想できるんですが、このトリックの目玉は「このようにする」の部分の発想。ただ読者としては、一度「あれを使うんだな」ということに気づいてしまうと、それを反駁するような要因が作中に提示されていない以上、その先の「このように使う」の部分にまで思考を働かせる必然性が薄くなってしまうのです。

 最終的にトリックが明かされる段階になれば、たしかに「このように使う」の部分に驚かされます。でも大筋の「あれを使って」の部分が既に予想済みで、その中のもっと細かい微妙なスケールに焦点が合わされているのを目にすると、ちょっとが論点がずれたような感想を持ってしまうこともないではありません。「途中まで分かってたのに」とあんまり意味のない負け惜しみを感じさせちゃいやすいんですね。

「どのように」の部分に読者の思考を引きつける誘導とか、"魅せ方"の部分がもうちょっとこなれていればよかったんだろうなー、と思います。同様のトリックでも、読者にどこを論点とを認識させるかで面白さが全然変わってくることはあります。ミステリーとしては扱いの難しいファンタジックな世界観も含めて、後の作品ではこの辺の扱いが上手くなってくれていればいいなと思いました。

 世界観と言えば、独特な終末観が何とも言えず。「もうすぐ世界が終わる」という状況が、ひたすら「もうすぐ世界が終わる」という言葉によってのみ表現されていて、その内容が具体的に描写されることはありません。太陽黒点の影響による強力な磁気嵐で世界中の機械がが狂ったみたいな設定が一応ありますが、社会システムが崩壊した程度で人はまだまだ生きています。それが容易く「世界の終わり」に直結する感覚に「楽観的ペシミズム」という造語を思いついたり。

 だから、北山さんが表現しようとしているのはあくまで「終末観」であって、「現象」としての「世界の終わり」そのものではないんだろうなと思います。たとえばもしこれが「太陽フレアによって地表が燃え尽きる」とかだったら、それこそ事態は世界の終わりという「現象」に直結する問題になります。そこをあえて磁気嵐程度の異常に留めておくことで、具体的な滅亡の過程には触れないまま「終末観」だけに焦点を合わせることができていたのかなと思います。

 ただ、その感覚が読者としての自分の頭の中にスムースに接続してくれなかったというところもあり。この辺の描写や上述したミステリー的な問題も含めて、これを書いた時点の北山さんが今後の成長の期待できる非常な若手だったことは幸福なことだったんだろうなーと思いました。